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劇団からっかぜの芝居つくりで思うこと16 [劇団からっかぜ]

第53回総会資料「二人の長い影」演出の反省から 2019/02/08  布施佑一郎

作者:山田 太一氏のあとがきから。
「引揚げ体験がただ過去の話しではなく、現在に及んでいるエピソードを含んでいたので「これで書ける」と、その手記を原案として脚本が完成された。筆舌に尽くし難い辛苦、敗戦の混乱で引き裂かれた運命、六十年以上を経た再会。戦争の傷、老いた二人の影をめぐって、現代と過去の出来事を織り交ぜ、「現代の人間ドラマ」をとして描かれています。」

山田 太一テキストを意識して、「現代の人間ドラマ」をつくったつもりです。
この「ドラマ」に、「登場人物の困った」を重ねたつもりです。
アンケートにもあったと思う。
 自分はこのテキスト『二人の長い影』からテーマ「人間の存在」この芝居でのテキストのキーワード。久美子の言葉の中に「私を居ないことにするの」「大人は見ない振りをする」「男は皆同じ」とある。
現在、自分が息をしている世の中で気になる三つの記事があった。
〇「パパ、ママゆるしてください」両親の虐待に「ぜったいあそばないやくそくするから」と書き残した、五歳の死。
〇「だれでも良かった復讐の無差別殺人」不幸な自分をつくり出した世の中への復讐。
〇「かぼちゃの馬車に駿河銀行の不正融資」優良銀行だから国が見習えといった儲けが正義の銀行の姿。
 私には、この三つの事件と今回の芝居のキーワードと結びついた。
この人間の存在に、振り回される笑い(ドタバタ)で描きたかった。
結果はアンケートにあったと思う。

 人は困ったときに、相手に振り回されるさま人間くささが面白い。
相手が変化したら変わる関係の芝居つくりがなせる笑いだ。
たくみに見せる振り演技での困ったでは、客が笑わない。
真吾にばれて攻められて困ってしまう。電話をかける馬鹿行為に、娘の彩が激怒し、また困る介護士。娘彩にも振り回される人間くさい介護士なのだ。
 苦しんでいる振りでは笑えない。本当に困った時、自分のなかにおきるドタバタが人間ドラマの笑いなのだ。自分勝手な演出のイメージを役者に押し付けても面白くないことは分かる。
僕らは、芝居でしか言えないものを求めている。人は処世術として心に鎧を付けている。自分を守るために。芝居はこの鎧を脱いだり着たりの舞台に生きている、生身の人間を見る楽しさであって、技術の熟練を見る楽しみは芝居の楽しみのほんの一部ではないだろうか。
役者がどのように演じようかと表現を気にしだすと、相手が見えなくなる。芝居ではなくなる。演出もまた同じだ。この芝居『二人の長い影』をどのようにつくろうかと表現を気にしだすと一般的なものになる。この時代に、このからっかぜのメンバーの魅力で、興味を持ってこの芝居に向かい合いたいと思っていた。
 46年間、妻と娘の前で、無口な老年真吾。松本介護士の前では雄弁になる。
自分の心の内に起こった「声に打たれた」真吾は、松本介護士の前で待ちおおせないで伝えようと雄弁になる。
「久美子ちゃんか」何でもしてしまう自分の存在を知ってしまう。
演出として何をしたのだろうか?何が出来たのだろうか?
一場から八場まで、奇数場小林家五人と偶数場坂崎家三人、奇数場小林家五人いても薄いのだ。
現代に呼び出される、青年真吾と久美子場。多くは、奇数場小林家五人との関係で成り立つのに、薄い。小林家を強化できなかった弱さに残念。

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浜松市芸術祭演劇の65年史
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